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あまちゃんがおもしろすぎて早起きができるようになった。
風間さんを持ってしても純愛はいろんな意味ですぐ挫折してしまったことを考えると、宮藤さんの力ってすごい。偉大だ。やっぱりいくら出演者が魅力的でも、内容に求心力がなければどうしたって無理が出てくる。朝からパンチが強すぎると疲れてしまう。
その点、あまちゃんはかわいいし朝からめちゃくちゃ爽やかだ。人と人との衝突もスカッと爽快なので気持ちがいい。よし!出かける!って気持ちになる。切なさもそんなに尾を引かない程度で、通勤途中にほんのり思い出すぐらいの絶妙な濃度だ。
たとえば、小池徹平扮する東京から出戻ってきた青年が、「あと1枚でタダになるから」と西新宿のカレー屋の券を帰京しようとするアキに渡すところ。東京人なのに引きこもりで東京のことをよく知らないアキに、よりにもよって西新宿、しかもあと1枚足りないってところがあまりにも切なすぎて、わたしはアップになった黄色い券の束という地味な絵に思わず落涙するところだった。あと1枚なのに彼はもう東京に戻ることをあきらめ、たかがカレー屋の券に何か夢に似たものをアキに託そうとしているようなそのシーン、小池徹平の暗いトーンの声もあいまって、わたしはこのドラマを見届けねばならぬという謎の使命感に駆られてしまったのだ。
わたしはアキがうらやましくて仕方ない。生まれも育ちも東京で親戚もすべて首都圏の人間に囲まれたわたしは、夏休みの自由研究でおばあちゃんの田舎での体験レポート的なものを発表するクラスメイトに激しい嫉妬を覚えたものだった。
東京コンプレックスというものは、なかなか理解されづらいのだと思う。
誰かが東京人は変化に寛容だと言っていたけれど、寛容なのではない。諦観しているだけなのだ。東京は変わってしかるべき土地だから、それに甘んじているだけなのだ。この景色が変わらないようにと願っても無駄だからだ。東京は、そういう土地だからだ。
昨日、昔の実家付近を散歩した。昔ながらの個人商店がなくなり、新しく洒落たお店ができていた。たいして風景は変わらないけれど、知っている空気ではなくなっていた。
東横線渋谷駅がなくなったときもさみしかった。でもわたしはずっと東横線と縁のない生活をしていて、やっと去年の3月から利用するようになったにわか者だから、心の底からさみしいとは言えなかった。足のつかない椅子に座っているように宙ぶらりんな気持ちのまま、わたしはさよなら東横線渋谷駅の顛末を見届けたのだった。
東京人だけど、東京は広すぎてなじみのある場所が少ない。だから景色が変わっても心から寂しく思うことができない。東京人でもこれが江戸っ子とかだったらまた話が違ったんだろうけど、そういうわけでもない。中途半端すぎて何をどう思ったらいいのかよくわからないのだ。しかも都会はスピードが速すぎて、さみしいと思う間もなく新しい景色ができあがっていく。
田舎を知らず、東京も知らず、しかし変化はさみしいと感じる。だからといって地方に移住したいという気持ちもない。なんだかんだ言って東京が好きだし、きっとわたしは死ぬまでここから離れられないだろう。でも帰る場所がほしいと思ってしまうときがある。わたしにつきまとう東京コンプレックスは複雑すぎてとてもめんどくさい。
論点がずれているような気がしているけど気にしないのだ。パパなのだ。
あまちゃんはストーリーがおもしろいだけでなく、なんとなく疑似体験させてくれるドラマなのだ。わたしは田舎を知らないけど、東京になじめずにやってきた女の子の目に田舎の風景はこうやって映るのかと嬉しい気持ちになる。三陸の景色をうらやましがるアキに、「海も山も見ないようにしてるんだ」と東京に憧れるユイは遠い目をして言う。宙ぶらりんなわたしなのに、どっちの気持ちもわかったような気がして泣きそうになる。なんだ!この感情は!こんな気持ち誰も教えてくれなかった!宮藤さんてんさい!!!
あまちゃんおもしろいよね。だいすきなんです。というお話でした(唐突に終わる