ままごと「朝がある」

ままごと+三鷹市芸術文化センター presents
太宰治作品をモチーフにした演劇 第9回
「朝がある」@三鷹市芸術文化センター 星のホール
作・演出:柴幸男 出演:大石将弘
http://www.mamagoto.org/morning.html

ままごとのお芝居は、いつもまぶしい。
まぶしさのあまり、感想をアップしそこねている。半分言い訳、半分本当。去年、あまりの評判の良さになんとかやりくりして観に行ったわが星、あそこからわたしはままごとの光に取り込まれ続けている。
「あゆみ」は、まぶしすぎて胸が痛かった。ひとりの女の子のありふれた、でもかけがえのない一生を描いた作品を、あろうことかわたしはぐっとお腹に力を入れたまま観ていた。少しでも気を緩めると、あっち側に行けないでずっと同じところで足踏みをしている自分に落涙しそうになって、そんな自分を認めるのもいやで、すてきなお芝居だったけれどどこか手放しで受け入れられないところがあった。
「朝がある」は、太宰治の「女生徒」をモチーフにした作品。恥ずかしながらわたしは未読だったので、この機会にアイフォンの文庫本アプリで読んでみた。来てるな!未来!

女生徒 (角川文庫)

女生徒 (角川文庫)

少女特有の、他愛もない独白。あっちこっちに飛び回る思索、矛盾、苛立ち、愛情、そのすべてにうなずきながら、微笑みながら、今も昔も女子は同じ思考回路の中に生きているのだと、作者が男性であることも忘れていとおしく読んだ。洗濯の手を止めて夜空の星を眺めているこの少女を、わたしはまぶたに浮かべて抱きしめたい気持ちになった。わたしはかつて、彼女だった。そして今でもわたしのどこかに彼女は住んでいる。
読み終えたら、ますます公演が楽しみになった。しかし「朝がある」は、男性のひとり芝居。どうなることかと思って遠い遠い星のホールに赴いた。
朝を迎えた少女の描写が淡々と、丁寧にリフレインされる。すこしずつ趣きを変え、男性のコミカルな独白も混じり、だんだんと朝の光景が厚みを帯びていく。誰も見ていなくても空に浮かぶ虹、東京から遠く離れた地方都市でくしゃみをする少女、朝の光の美しさ、世間的には昼だが今起きたから今は朝なのだ!という叫び、光を構成するさまざまな素粒子、いなくなってしまった幼なじみ、最寄り駅を発車して3分後に見えてくる大きな川、すべての光景が圧倒的な言葉と、歌と、光や音によって目の前に立ち上がってくる。まぶしくて思わず目を細める。どこか谷川俊太郎の詩のようなお芝居だと思った。
わたしは少し前まで、朝を迎えることになんの感情も持たなかった。もっと極端に、別に朝が来ようと来まいとどっちでもいいと投げやりになっていたときもあった。でもわたしは今やっと、そんな暗いトンネルを抜けて、朝の光のまぶしさをまた実感できるようになった。明日が更新されることにわくわくするようになった。だから、「朝がある」はわたしの心に新鮮な水のようにしみこみ、躍動感が生まれる後半からは光あふれる世界にぱっと窓を開いたような、そんな爽快感でいっぱいになったのだ。「今あるものについて語ろう、ここにないもの、過去のことについて話をするのはやめよう」途中で挟まれるメッセージにはっとした。長いこと寝ぼけていた頭に冷たく清らかな水を注がれたような気分だった。
世界は美しいことばかりではない。悲しく、つらく、どうしようもないことにあふれている。でもそのすべてを諦観することなくありのままに包み込み、肯定して前に踏み出す一歩をくれるままごとのお芝居が、わたしは大好きだ。