ぴよマギ

5月病になるヒマもなく6月になっていた。
季節感を大切にするわたしにとっては事件だ!しかしよいことだ!5月に何をしたのかいまいちよく覚えてないから、もしかしたらぼんやり病が5月病を凌駕してしまったのかもしれない。それはそれでまた別の問題が発生している。いや、しかし今年の5月は例年と比べてめずらしく幸せだった気がする。不幸ははっきりと刻みつけられるけれど、幸せはじんわりとカラダを包み込むから、記憶も少し曖昧になる。
今年ももう折り返し地点を過ぎてしまったね。……ということを口に出してしまった!うっそぴょーん!今のなし!まだ2012年になったばっかり!
むなしい。
遅ればせながら、わたしはまどか☆マギカにハマっている。絵があんまり好きじゃなかったのでMXでやってる再放送を録り溜めたまんまで全然消化してなかったのだけど、中盤からいきなり超展開が訪れて目が離せなくなってしまった。待ち合わせに遅刻する勢いで一気見をしてしまった。
望みを叶える代わりに魔法少女になった少女は、やがて魔女になってこの世から消えていなくなる。それがいわゆる質量保存の法則だと、感情を持たない白くてモチみたいな動物が口を動かさずにしゃべる。にくたらしい。にくたらしいのに造形がかわいいので殺されたりするとウワアアアって思う。そんなところも含めてにくたらしい。
にくたらしいものは可愛い姿であることが多い。可愛い姿であればあるほど、にくらしさのやり場と自分への跳ね返りに拳を固めてうずくまってしまう。ぶちのめしたいけどぶちのめせない。圧倒的な可愛さの前に、人は無力なのだ。エラそうなことを言いながらもあっけなく無力になった人をわたしは何人も見てきた。
ちがう。途中から話がすり替わってしまった。キュウべえの話がしたいわけではないのだった。しかもこれはキュウべえ問題の本質からズレまくっている。
このアニメを本放送で観ていたらわたしは危なかったな、と思った。2011年1月からの放送だから、わたしがまだ傷を抱えてぼんやりしていた頃だ。最終回はちょうど震災とかぶって延期になったことを、まったくの部外者であるわたしでもネットのニュースで知っていた。わかーるわかるよキミの気持ち。あの物語のラストがおあずけをくらうなんて、相当に辛いことだっただろう。そして放送が延期された理由も、よくわかる。
少女の姿を借りて語られるそのストーリーは、歳を重ねてたくさんの経験や思いが蓄積されればされるほど翻って我が身に刺さる。ああ、わたしはあのとき、ほんとうにさやかちゃんだったな。痛みがだんだん麻痺して涙も出なくなるあの感じを思い出しながら、みぞおちにじわじわと広がる痛みを感じながら、それでも物語を追うことをやめられなかった。誰かの幸せを願った分、別の誰かを呪わずにいられない。知ってるよ、さやかちゃん。わたしも世界を呪ったことがあったから。でもその先にある景色を知った今、絶望に目隠しされても少しずつ光が届くことを教えてあげたかった。そんな救いが彼女にも訪れることを祈って先を急いだよ、叶わなかったけれど。
昔のわたしを見るようで、痛くて痛くて、でも不思議と涙は出なかった。闇の真っ只中にいたときにこれを観ていたら、わたしもきっと魔女になっていただろう。今こうやって俯瞰で見られることにつくづく幸せを感じる。
アニメにまったく興味ないけど、この物語に引き込まれる予感がする人にまどマギを途中まで観せたら、案の定続きが気になって仕方ないと言った。心のなかで小さくガッツポーズをした。相手はほむらが何度もやり直すシーンにいちばんぐっと来たと言い、わたしはやっぱりさやかの痛々しさに胸が潰れたと言って、それぞれに感想を話し合った。同じものを見て感銘を受けて、ああだこうだと感想を言い合う時間がわたしはとても好きだ。好きなものが増えたこと、それを人と共有できることがなによりもうれしくて、大げさだけど生きてる!って気持ちになれるんだ。ああ、つくづくわたしは世界に生かされてるんだなあと思う。世の中のすべての、素晴らしいものを作り出す人たちに最大級の賛辞を。
アニメにまったく興味のなかったその人が、まどマギの映画を一緒に観に行こうと言った。ひとりじゃアニメの映画なんか観に行けないからって。やった!わたしをきっかけに誰かの世界が広がるのを見る瞬間がいちばんうれしいよね!世界とあなたの頼れる仲人、ぴよまるでっす☆(調子に乗っています