Pは真夜中のほとりで

マームとジプシー10月公演
「Kと真夜中のほとりで」@こまばアゴラ劇場
作・演出 藤田貴大

この公演タイトルを見た瞬間、わたしの大好きな梶井基次郎の短編「Kの昇天」を思い出した。お好きなのかしら、と思っていたら、今後の予定に「タイトル未定新作 原案:梶井基次郎檸檬』」とあったので、確信した。
エントリのタイトルはミスタイプじゃないです。Pは、ピヨ丸のP。
ある日、けいちゃんが突然いなくなった。けいちゃんが真夜中に突然失踪してからもう3年が経つのに、消えた妹の痕跡をを探す兄、さよならを言えないまま別れ、けいちゃんとの思い出を抱きしめるだけの友人たち、その友人を取り巻く人々の、明けない心の夜を描いた群像劇。
梶井のKは海辺で消え、こちらのKは湖のほとりで消える。
劇団の評判を聞き及んでいたから、公演が決まってすぐに申し込んだ。ただ、わたしはまだ新しい演劇に慣れていない。ままごと「わが星」ではすっと入ってきた身体表現(ダンス?運動?)を伴う台詞回しだけど、今回はアスリート並みの運動量、とにかくほぼずっと動きながら細切れに、何度も繰り返される言葉の断片に、最初はいらいらしてしまった。なかなか話進まないし、観てて落ち着かないし、なにより役者さんたちがほんとに大変そう……。汗だくで息が上がり、たまに酸素を吸入しながら、それでも絶えずにしゃべり続ける。こっちまでしんどくなっちゃうよ。
でも、登場人物が次第に増え、思い出が語られていくたびに、わたしの気持ちは急速に物語に引き寄せられていく。絶え間ない役者の動きに、言葉の繰り返しに、生きていくことの連続性をみる。湖のある、小さな田舎町。町の出口はひとつしかなくて、真夜中を徘徊すれば必ず顔見知りに出会う。みんなが昔の思い出を抱えたまま、どこへも行けずにうろうろとさまよっている。
眠れなくて、りんこの家を真夜中に訪ねてきたそのこ。でも3年前のあの真夜中、けいちゃんが訪ねてきた思い出が手放せなくて、この扉を開いてしまったら、けいちゃんの姿が記憶からこぼれてしまいそうで、ドアを開けられなくてごめんねそのこちゃん。涙ながらに独白するりんこの姿が胸に痛くて痛くて、振り向いたけいちゃんの笑ったようなその表情が、見えたような、気がした。

この夜が明けないまま、朝はくるのでしょうか。
でも、わたしたちは、この真夜中を、終わらせなければなりません。

りんこは、町を出ることを決意する。それを告げると、けいちゃんのお兄ちゃんのかえでくんは笑顔で「いつでも帰ってこいよ」と言った。ほんとうにそう言いたい相手はわたしではないのに、とりんこは泣く。
思い出の中で人は生きられないのだ。明けない夜をずっと心の中に閉じ込めていたら、そこから前に進むことなんてできない。
物語が終わって、アゴラ劇場の外に出た。まだ雨は降り続いていた。階段を上がると、踏切が見える。踏切の向こうには、わたしが3年間通った駒場のキャンパスが広がっている。自分の大学にはろくに通わずに、ずっとサークルの部室に入り浸っていたあの3年間。この踏切を超えて、右に行くとちょっとした木立があって、そこを抜けるとプレハブ棟、入ってすぐ右の部屋の引き戸を開けると誰かがファミコンをしていて、こたつで誰かか寝ていて、「あれ?どうしたの駒場生」と先輩がわたしに笑いかける。木立の中では桜の時期に逝ってしまった歌の上手な先輩が新入生に発声指導をしている。つい昨日のことのように思い出がよみがえるけれど、もうあのプレハブ棟はなくなってしまったし、あの頃の仲間だって当然いない、わたしはもう、この踏切を超えることなんてできないのに、思い出が濃すぎて、踏切のサイレンを聞くだけで胸が苦しくなる。10年以上も前のことなのに。
今まで生きてきた中で、いちばん濃密な3年間だった。あんなに密に他者との関わりを持ち、みんなで目標に向かって走っていく気持ちよさを感じたことはなかった。このまま卒業しても連絡をとりあって、楽しい日々がずっと続くと思っていた。
つい2年くらい前までたまに飲んでいた同期とも疎遠になり、大学時代から付き合っていた人とはおととし別れた。あの頃を共有できる人は、もう誰もいなくなってしまった。なのに、わたしひとりが思い出の中に放り出されて呆然としている。ずいぶん遠くに来たと思っても、思わぬところで思い出の壁にぶつかって立ちすくむ。あの思い出を上回る出来事に出会えていないから、ずっと真夜中に閉じ込められてひざを抱えている。
りんこは、思い出を断ち切るために町から出る決意をした。もしかしたら、わたしもそうしなければならないのかもしれない。誰も知る人がいない場所に、たったひとりで踏み出すしか。
「今」に恵まれていたら思い出も美しいまま残るけれど、「今」にもがいている背中には、ただの重荷でしかないんだよ。