彼岸より

Nobuyoshi Araki 荒木経惟
彼岸
July 22 – September 25, 2011
RAT HALL GALLERY

ギャラリーに入るとまず最初に、定点カメラによる空の連続写真と、安らかに眠っているチロの写真がわたしたちを出迎える。
愛妻も愛猫も失い、自身も病を宣告されたアラーキー。「此岸と彼岸を行き来しているような感覚の中にいる」とかつて自身が語った言葉を思い出す。
壁一面に貼られたモノクロのスナップ写真。電話しながら歩くビジネスマン、制服の女子高生の後ろ姿、立ち話をする若い女性、乳母車を押す母親、スクーターに二人乗りする若者、どれも行き交う人々の生態を切り取った、何気ない光景だ。自分が被写体になっていることなどつゆ知らぬ自然な表情ばかり。
その合間に、ラッピングバスや街に乱立するアド看板などのスナップが点在する。玉木宏菅野美穂のドラマの看板、出会い系ケータイサイトの下品なラッピングバス、ICONIQのCD広告看板……。ビールを手に佇む嵐の看板が少しぶれぎみに映っていて、なんだかこの世のものではないような物悲しさを漂わせていた。
昨年、NHKのドキュメンタリーでアラーキーの撮影方法を観た。タクシーの中からパッとカメラを向け、ものの1秒もかからずに撮影する。早業だった。彼岸からはどのように見えているのだろう。わたしたちは生きているように見えるのだろうか。
看板以外カメラ目線のまったくないスナップ写真の中で、1枚だけ視線が向けられている写真があった。ショートカットの若い女性がひとり、振り向きざまに画角の中央でカメラを見ている。
それはとても自然な表情だった。おそらくカメラとわからずに何かのきっかけで振り向いたところを、ジャストなタイミングで写真に収めたのだろう。
その写真だけが、生を感じさせた。
彼岸の目と此岸の目が合ったような奇妙な高揚感に、わたしはその場からしばらく動けなくなってしまった。
その女性の写真は、しばらくしてふたたび登場する。おそらく同じ人物の写真は彼女以外1枚もないはずだ。もう1枚の彼女は斜め下に視線を落とし、何か思案しているように見える。どちらが先に撮影されたかはわからない。しかし彼女の写真があることで、これはこの世の光景であるということを思い出させてくれる。
次のブースには、彼の使っている一眼レフの写真。カメラの本体に「彼岸より」と書かれたシールが貼ってある。
震災関連で真っ白になったテレビ欄、「宮城県で亡くなられた方々」という新聞の切り抜き、崩れた墓石をシートで覆っている光景、店員や通行人が呆然と、為す術もなく上を見上げている写真。どれも、あの日のものであることがわかる。
モノクロで撮られているから、という理由ではないと思う。この皮膚感覚のなさはなんだろう。まっすぐ胸に刺さってくるけれど、直接的な痛みというよりは天上から射す光に目を開けていられないような、どこか遠くの国の悲劇を見ているような感覚。あまりにも抽象的すぎる自分の表現に自分で混乱するけれど、そうとしか書けなくて語彙力のなさに膝をつく。
ひんやりとした地下のギャラリーを出ると、青山の喧騒にあっという間に包まれて少しくらくらした。此岸に帰ってきたような気持ちになった。
本当に彼岸に旅立つその瞬間、アラーキーはいったい何を撮るのだろうか。