梅目

うめかよがしゃべってんのを聞いてると、なんか涙が出る。

「これからどういう写真を撮っていきたいですか」
「それは、決めません」

そう言い切れる強さにあこがれる。そして、うめかよには「あこがれ」という言葉すら振り払ってしまいそうな、そんな強さがある。
目標を決めないということの、なんたる心細さ。わたしには、その心細さと戦っていける勇気がない。
うめかよがファインダーを向ける先には、いつも愛情が注がれている。しかも、ファインダーの向こう側からも、もれなく愛が返ってくる。それが第三者にも確実に伝わってくる。そんな奇跡みたいな写真なんて、いったいこの世に何枚あるだろう。
わたしの大好きなうめかよが、大好きな愛$さんを撮ってくれたことがある。光を綺麗に当てるでもなく、おそらくレフ板を使うでもなく、面白い瞬間をノリと勢いで切り取ったその写真たちは、ちっとも愛$写真なんかじゃなかった。もちろん顔がきれいな子たちが写ってるから「じゃない」ってことはないんだけど、ただの男子たちだった。それがものすごくうれしかった。「笑顔で」「次はこんなポーズで」そんな指示なんか絶対されてない、自然体で、半端な表情で、変顔で、たまにぶれてて、楽しそうだな、仲よさそうだなってつい顔がほころびそうな写真ばっかり。愛$は笑顔がナンボだから、職業病みたいについ笑っちゃうとこがあるかもしんないけど、それをさっ引いてもあまりある男子っぷり。写真てこうだよなって思った。写真って、ほんとうは瞬間を切り取るもの。その空気を閉じこめるもの。静止した状態を撮るものじゃないんだ、ほんとうは。
うめかよは、自分の写真を報道写真だと言った。自分の生きた時代に、こんなに愛すべき瞬間があった、その記録だと。彼女の撮る写真にはほとんど日付が入っている。それがその証拠だろう。
うめかよの写真は、うめかよの目。わたしは彼女の目にあこがれ、そしていつも彼女はあこがれなんてことばを振り払って、次々と愛の写真を撮り続ける。手を伸ばしても虚空をつかむだけだから、わたしはあきらめて彼女の写真を見る。胸が詰まって、少し狂いそうになる。でもわたしは、彼女の写真から決して目をそらすことができない。