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大学時代の友人の家に赤子を見に行きました。生後約4ヶ月、未知との遭遇でした。わたしの身近に子どもどころか赤子は皆無なため、こんなにちいさな人間を間近で見るのは生まれて初めてなのです。彼女は、うちの犬よりも小さいいきものでした。「さわっていい?」と聞きました。さわり方もよくわからないので、人差し指でむっちりとした足を撫でてみました。すべすべとしてあたたかく、あまりに張りのあるその足を見て、「腸詰みたいだ」という第一印象を抱いてしまった自分に少なからず失望しました。失望しながらもそのめずらしいいきものは大変おもしろく、よく動く足の裏をやわらかくひっかいて「くすぐったいのか」と少し遊んでいたら、黒目がちの目がこちらを見ました。ああ、笑っている。ほんとうに表情豊かな子で、あまりぐずることもなく常に機嫌よさそうに手足を動かしている彼女を見ていたら、唐突に胸が熱くなりました。目の前にいる夫婦は共に大学時代の友人であり、お互い過去のさまざまな若気の至りを共有している仲間です。あの日から何も変わってないと思いながらここまできたけれど、こうしてさも大事そうに我が子を見る彼らの姿に父母の情愛を感じて感動したのと同時に、自分が過去のある時点に磔にされたまま動けなくなっているような錯覚を覚えました。死ぬまで好きなことを好きなときにやって暮らしたいと昔から思っていたし、今も実践しているけれど、その家族の風景を見た瞬間に自分の生き様が急に色褪せて見えたのです。幸せかと訊かれて幸せだと言い切る自信はある、でも彼女たちの笑顔にその言葉は追いつかないと思ってしまったのです。
わたしは子どもが苦手です。どうしていいかわからないし、公共の場で子どもが近くにいると正直うんざりしてしまう。でもそんなわたしを見て、彼女はにっこりと笑うのです。赤ちゃん言葉であやすこともせず「これがいいのか」「ほっぺたでたこ焼きやっちゃうぞ」などと明らかに慣れないあやし方をするわたしに、彼女は笑いかけてくれるのです。
自分の立っている足元が、ぐらぐらと揺れるのがわかりました。
幸せの定義は人それぞれ。わたしにとっての幸せは、渡り鳥のように興味の先を次々に見つけては貪欲に取り込んでいくという行為そのものにありました。今でも、あると思っています。でももしかしたらわたしは、ほんとうの幸せをまだ見つけていないのかもしれない。ほんとうの幸せを見つけた瞬間に、世界がすべて裏返るのかもしれない。その時が来るのか未来永劫来ないのか知る由もありませんが、彼女の無垢な笑顔はわたしのアイデンティティすら揺らがせる威力があったのです。
わたしたちはずっと同じ線の上に立っていたと思っていたのに、ずいぶん遠くまできてしまったんだなあ。