願わくば、花の下にて

会社に行く途中、川を渡る。風情の欠片もない都会のドブ川なんだけれど、川のある風景はどこか人を和ませる。
そんなドブ川に今朝、おびただしい数の桜の花弁が浮かんでいた。それはあたかも天の川のようで、すでに花弁の形をなくし、大量の薄紅のかたまりとなって流れていくその光景はほんの少しおぞましくて、ただひたすらに圧倒された。
ふと、今は亡き人のことを思い出す。
今朝、とくダネで特集されていた元成子坂の村田渚のこと、そしてもう10年も前に天上人となった祖母のことを。利かなくなった手で懸命に書いてくれた手紙の便箋は、確か桜色だった。
桜は死者の面影を呼び起こす。風に巻き上がる花弁の向こう側に、見えるはずのない影があらわれるような気がしてしまう。
更新されてるな、と何気なくどうでしょうの日記を読んだら、奇しくも同じようなことをうれしーが書いていた。
少し、泣いた。春はセンチメントの季節

2007年4月3日(火)

嬉野です。

もう7年も前の話になりますが、
不意に東京時代の知り合いからハガキが来まして、
札幌で友達の結婚式があるので、急な話だけど好かったら会わないかというのです。

懐かしい人でした。
その時点で15年も会っていなかった人でした。

西暦2000年の夏でした。
その頃どうでしょう班は「四国R-14」というホラードラマをのんびりと撮影していた頃でした。

その日は、撮影の無い日だったので、
ぼくは、藻岩山のふもとにある御茶屋にその人を誘って、
15年ぶりの再会をはたしました。

若い頃、初めてのドラマの現場で、その人にいろいろ教えてもらったことがいつまでも忘れられず、人伝にその人に対して持っていた感謝の気持ちをことあるごとに語っていたので、その人も人伝にそのことを聞いて、不意に思い立って、久しぶりにぼくに会ってみようかと思うようになったのかもしれないなと思いました。

ひとしきり、お茶屋で昔話をして、
ぼくらは明るいうちに別れて、その人はその足で空港へ行き、
東京へ戻って行きました。
駅の改札で振り返りながら手を振るその人の顔は笑顔で、
札幌でのぼくとの再会をとても喜んでくれたように見えました。

それから二週間ほどしてその人からメールが来ました。
入院したというのです。
病気ですかと返信すると、検査入院だから大事は無いということでした。
その人は、病室の窓から見える風景をメールに書いていました。そこには、ほんの少し秋の気配が偲び寄っているようでした。

ある晩遅く、
妻もぼくも寝ている時間に我が家の電話が鳴りました。
夜更けの電話には、いつも不吉な響きがあるような気がします。

出ると知らない女の人の声でした。

「すみません、始めてお電話しています。実は、昨日姉が亡くなりまして、それで、姉の知り合いに知らせなければと思ったのですが、あいにく姉とはしばらく交流がなかったもので、とりあえず今、姉の手帳にお名前のある方にお電話をしているところなのです」

ぼくは驚きました。
つい何週間か前に札幌で会って、
その後入院したとはいえそれは検査入院、
しかも先週も本人からメールをもらったばかりだったので、
その人が死んだと言うことがどうしても信じられなかったのです。

しかし、気を取り直して考えれば、信じられないのは、その妹さんこそなのであって、気持ちの整理をつけられないまま、自分が電話をかけている相手と、自分の姉が、どれほどの関係があったのかもわからず、心細い思いで戸惑いながら姉の死をきりだしているのです。

ぼくは、若い頃にお姉さんに教えてもらったことは今でも忘れていない。未だに感謝の気持ちでいっぱいだということを妹さんに語りました。
妹さんは、自分が知らないところでの姉の活躍を聞いて、ほっとしたような声になり、短かったお姉さんの人生を思ったのでしょうか、少し泣いているようでした。

翌日、ぼくは会社へ出て、パソコンを開きました。
先週もらったばかりのメールには、死の影は微塵も無く、
全てが思い違いのような気がしました。

ぼくは、そのまま、死んでしまったというその人にメールを書き、
返信してしまいました。

なぜか、死んでしまったその人に、メールだったら届くような気がしたのです。

それから二年後の2002年。
ぼくの父は肝臓を悪くして亡くなりました。

斎場で骨になった父を抱きながら帰る時、
姉が困ったように笑いながらぼくに言うのでした。

「携帯にあるおとうさんの番号にね、電話しちゃうのよ。どうしてだか、お父さんが電話に出てくれそうな気がするのよね」

ぼくは、分かるような気がしました。
そして、今でも、そんな気がするのです。