NODA MAP「ロープ」@シアターコクーン

1/20(土)ソワレ。やっぱり少し、書いておきたい。
観る前から賛否両論あることは知っていた。「直接的すぎる」「野田らしくない」いつもと様子が違うらしい雰囲気に、覚悟を持って臨んだ。それは開演5分後ですぐにわかった。今回は、いつもと様子が違う。
野田の芝居はいつだって回りくどくて比喩的、美しく儚くて詩的だ。いつも心の芯の部分を打たれて幕が下りても余韻に震えたまま夢から醒められず、しばらく席から立ち上がれなくなる。「パンドラの鐘」も「赤鬼」も「オイル」も「半身」もそうだった。感想を語れば言葉はすぐに色褪せ、どんな形容詞もあの芝居の前では枯葉剤になってしまうような気がしてうかつに口を開けない、そんな想いで溢れるのだった。
「ロープ」には、いっさいのきれいごとがなかった。回りくどさも比喩も美しさも儚さも、詩的な表現だって見当たらなかった。そこには暗く淀む現実しかない。未来永劫消えることのない現実、見えないふりをしても確かに横たわる現実から目を逸らすなと、真実をエグいほど的確に描写する言葉の弾丸が観客の額を貫いていく。
痛い、と思った。
野田の方法論を嘆く声にはさもありなんと思うし、わたしが彼に求めるのも今までのやり方だったことは否めない。揺るがない現実をふんわりと包み込んで切なさの海に叩き込む、あの演出が観たかった。本音は、確かにそうだ。
しかしたぶん、きれいごとで舞台を飾れるほどの猶予がこの現実にはない。回りくどい表現も過剰な言葉遊びも、美しさも儚さもない、深く暗く横たわる揺るぎようのない真実は、そんな甘い砂糖菓子みたいなもので飾れる代物ではないのだ。飾れる代物でもないし、ますます現実は逼迫し、飾れる余裕もなくなってきた。表現者として彼は、それだけギリギリの状態に立たされているのではないか。
野田のやり方を変えてしまうほどの現実が、今この時代に充満している。タマシイが声を限りに叫ぶ惨状、それに呼応するかの如く鳴り響く銃声とヘリの爆音に、わたしは真相を見たような気になってひとり悲しみの底に沈んだ。
もう、おとぎ話を語ってる場合じゃないんだ。
四方八方から血が噴き出すような舞台から、そんな声が聞こえたような気がした。

あんな芝居を1ヶ月以上毎日のように繰り返して、役者さんたちはおかしくならないんだろうか。麻痺しないんだろうか。ふとそんなことを考えて背中が冷たくなった。観てる間じゅうつらかったけど、観てよかった。今の野田の意志をこの目で確認できて、本当によかったと思う。