ポつネん

週末に観てきました。最初で最後のポつネん。ネタバレかと問われればネタバレの類に入るかと思います。

コントじゃないやい。
こんなの、コントじゃないやいやい。

コントがたくさんできました、見てください。よし笑いに行きましょう。でも、そこに並んでたのはコントじゃなかった。きれいな包装紙に包まれた、お上品な作品たちでした。アート?パフォーマンス?表現の可能性を探る、いろんな見せモノ。
そう、トリエンナーレみたいなもの。観客参加型ではないけれど、「へえ、よくできてるねえこれ!」と感心するような。

自分が声を上げて笑った場所を、わたしははっきりと覚えています。
「人がゴミのようだ」
「いい家ですね」
彼がジブリっこであるという現実は、一瞬ですがわたしを心安らかにしてくれます。

みんなよく笑っていました。感嘆の声も各地から上がっていました。
わたしとMちゃんは、くすりともしませんでした。できませんでした。なぜならあれらは、コントではなかったから。わたしがコントと認識しているものではなかったから。

彼はコントという範疇を打ち破りたかったんでしょう。そう解釈することはたやすいですが、わたしはそれを受け入れることはできませんでした。そしていつもそばにいるはずの人の影を、どうしても探してしまうのです。彼だったらこう言うだろう、彼だったらこんなリアクションをするだろう。そしてわたしは笑うだろう。でも、そこには影すらも見当たりません。当たり前のことに気づいて、小さくため息をついてしまうのです。彼が思う「コント」を見せてくれているというのに。

開演前、挨拶には「白い壁」と書いてあったのに黒いままの壁を見てMちゃんが「壁黒いよ?」と言いました。「きっとあれだよ、利口な人には白く見えるんだよ。王様はハダカだー!」言ってから、なんだかメタファーっぽいなと内心シニカルな気持ちになりました。

でも「踊る大捜査線」のアナグラムはうれしかったです。最後に「おださん」になったのもうれしかったです。なぜなら、ファンだから。
あと、「知人たちの靴ひも」のおっかないジャケット、あれ本気で泣きそうでした。こわすぎる。夜寝るときに何度もよみがえってきて、次の日は寝不足になりました。本当にこわかった。あんなのコントじゃない。

スポットライトを浴びて賞賛の拍手を受け、満足そうに客席を見渡す彼の姿を見ながら、わたしはなんだかひどくさみしい気分になったものでした。ずいぶん遠いところに来てしまった。あなたも、そしてわたしも。

最後のコント(と呼ぶのも不自然ですが)で、その気持ちはさらに強くこみ上げてきました。ああ、あれに似ている。ホンジャマホンジャマいいながら帽子をいろんな形に変えていく芸、そうだ早野凡平だ。好きだったなあ、幼心に次々と形を変える帽子が不思議で、ぽかんと口を開けてずーっと見ていた。もうあの人、死んじゃったんだなあ。
そんなことを思い出したりして。

それが彼の語り口のせいなのか、内容のせいなのかわかりません。でも言いしれぬ感情が胃のあたりからぐつぐつとわき上がってきて、涙をこぼしてしまうかと思いました。なんでだろう。なんだかひどくさみしい。十分にあったまった会場のなかで、ひとりぼやけそうになる視界と必死でたたかっていました。

炎が出た。しつこい拍手に応えてハトが出た。ほらやっぱり、これはマジックショーだったんだ。なおもしつこい拍手に照れ笑いをしながら、でも本当に嬉しそうに去っていく彼を見届けて、わたしとMちゃんは無言で立ち上がりました。長蛇の列を無視し、本多の階段を折り、わたしは短く「コーヒーでも飲んでいく?」と聞きました。彼女は首を横に振ってから、「でもちょっと飲んでいこうかな」と言いました。うれしくなってお店を探しましたが、適当なところが見つかりませんでした。彼女は10時までに買い物に行かなくちゃならなくて、結局時間切れで手を振りました。未練がましいわたしは自分の気持ちを短い言葉で携帯メールにしたため、泣きそうな気分のまま電車の中で送信ボタンを押しました。

ロボピッチャーの「泣きべそをかきましょう」というさみしくて大好きな歌を、ipodで延々とくりかえし聴きながら帰りました。「乾いた空の切れ間から 舞い込むいくつかのメロディ 何回も何回も叫んでよ 届く場所などないけれど」

夜半過ぎにMちゃんから返事が届きました。
「やっぱり蜜月の終わりを感じるねえ。私も、最後のコントでなんでだか泣きそうになったよ。」
同じことを思う人が隣にいて、ほんとうによかった。

面白かったとか面白くなかったとか、そういうことではないのです。彼の立ち位置について語る気もありません。ただ、さみしかった。ひたすらにさみしかった。それだけなのです。

ポつネんとさせられたのは、わたしの方かもしれません。