バインにまつわるよしなしごと

カテゴリーが音楽でいいのかわからないけれど、ひさびさに穴掘って叫ぶ……というか、ぼそぼそ呟くような内容です。ライブレポですらありません。だらだら長くておまけにセンチメンタル過多だよ!気をつけて!
6月19日日曜日、Zeppダイバーシティ、GRAPEVNEツアー最終日。
夫の親戚の四十九日がその日にあって、15時から会食という酷なスケジュールのおかげで17時半の開演には全然間に合わなくって、会場に着いたらもう18時を過ぎていた。履き慣れない黒いパンプスだったわたしは、到着した時点ですでにもう足を痛めていた。こんなんでこれから立ち尽くすのかと思うと、いくら好きなバンドでも少し気が滅入った。
人気のない受付を通りすぎ、誰もいないドリンクカウンターで水を受け取って、ライブハウスの扉を開けたら壮大な「KINGDOM COME」の最中だった。あんまり経験したことないけれど、途中からコンサート会場に入るという静から騒の落差がわたしは好きだ。一瞬で非日常に放り込まれ、光と音にあふれた空間の中、ステージに夢中の観客の間をすり抜けていく。特にその日はそれまで法事で気を張っていて、服装も暗くて無個性な無地ばかり、おまけに足元はありえないヒール。夫と共通の好みでもなく、昔のことばかり思い出してしまうバインとくれば、そのギャップたるや生半可なものではない。
ヒールっつったって3センチくらいでちびっこのわたしにはものの役にも立たず、段のあるところに上りたくても暗すぎてルートが見えやしない。とりあえず段になる直前の一番うしろに陣取って、一生懸命人の頭を避け避け、なんとかわずかな隙間から田中をとらえることができた。
髪の毛、やっぱり短いなあ。
田中の長い首が目立って、いつもよりえろく見える気がする。
普段は友達と一緒に入るから前のほうで観ているのだけど、今日はひさびさにステージが遠い。しかもひとり。センチメンタルにひたる余白なんて腐るほどある。なんかあやういなあ、わたしが、と思いながらステージを見つめていた。
最近のアルバムは流しっぱなしにして何度か聴くぐらいなので曲目も曲自体も記憶が曖昧で、あ、これ聴いたことある、というていたらくだった。昔は一生懸命歌詞カードを見ながら、曲名を追いながら聴いていたけど、もうどれがどのアルバムの曲なんて覚えるのは至難の業だ。
でも「SPF」は、ニューアルバムの中でも引っかかる存在だった。幸福の中に少しだけ影が見える。その影を見ないふりしてなんとか幸せに導こうとしているような素振りが見える。田中が聞いたら「見当はずれなこと言いますなあ」とか言われそうだけども。
田中はもう幸せな家庭を築いて子どもにも恵まれているのに、なぜあいかわらず根底に澱が淀むような歌を作り続けるのだろうと、わたしはずっと不思議だった。と同時に、そこが魅力でもあるのだけれど。
でも実際、自分自身が家庭を持ってなんとなくそれがぼんやりとわかった、ような気がした。
根底に淀む澱は、きっと今後何があったって消えることはない。いくら幸せが上積みされたとて、地層のように体内に残り続けるのだ。業という言葉を使うとなんだか簡単すぎて違う気もするけれど、そんなようなものだ。体質と同じで、ない人にはきっとひとかけらもないし、理解もされないんだと思う。
いろいろあった過去がどんどん遠ざかっていく。年月は過ぎるばかりだけど、痛みはいまだに手の届く場所にある。あの時の気持ちをすぐにでも取り出して涙をにじませることだってできる。夫の帰りを待ちながら、でも夕飯の献立はノープランのままキーボードを打っている今だって、心のどこかにはずっと荒野が広がっている。
とても聴き慣れたイントロが流れて、あ、「風待ち」、と曲名を思い出す前に、涙が出た。
曲の間じゅう、ずっと泣いていた。ライブハウスで泣くのはとても好きだ。暗くて誰も見てないから、嗚咽しないかぎりはいくら泣いたって恥ずかしくない。
たまにはあなたの顔 見れないもんかなあ
ずっと一緒にバインを見ていた人のことばかり思って、いや、思うつもりはないのだけど、おそらくその人のことが引き金になって、全然涙が止まらなかった。田中の声はセンチメンタルに優しすぎる。
今度トライセラとファーストアルバム再現ライブをするにあたって、スペシャで特番が組まれた。「君を待つ間」のPVが流れてもっと華奢だった頃の田中と、むかし田中が愛用していたエピフォンのギターが映って、不意を突かれたわたしは思わず胸を押さえてしまった。
「田中とおそろいにしなよ」
そう言って買わせたギターだった。そのギターでよくその人は弾き語りをしてくれた。
思い出が多すぎて苦しいのに、バインを観ることをやめられないでいる。その日は「Scare」と「HEAD」を続けざまにやったりして西原誠のことを思わずにはいられず、二重の意味で呼吸が荒くなるライブだった。「Scare」のイントロでいつも田中と西原誠は背中合わせになって弾いていて、その瞬間がおたく的な意味でも大好物だったのだけど、田中は彼がやめてからそのパフォーマンスをやらなくなった。かねやんには悪いのだけど、かねやんはひとつも悪くはないのだけど、ほっとするわたしがいた。あの脱退は田中につきまとう喪失感の一因になっているに違いない、それもこの音楽性を生んでいるのかもしれないと思うと、どんな顔をしていいのかわからなくなる。
やがて背の高い人に阻まれて、わたしの視界は悪くなった。背伸びするのもしんどかったからずっと照明を見ていた。いつもステージばかり観ているからそんなに注目したことはなかったけれど、バインの照明はほんとうに素晴らしくて、ずっと地明かりでステージを照らしていたと思ったら急に田中にだけピンスポが当たったり、曲のメリハリに合わせたドラマチックな瞬間がいくつも現れていた。そんなのどのミュージシャンでも当然なんだろうけど、バインはことさらドラマチックだとわたしは思っている。
生まれ変わったら照明さんになりたいな。
唐突にそう思った。大人になってからのほうがなりたい職業って思いつく気がする。10代そこそこで進路決めるなんて人生経験が未熟なんだからどだい無理な話だ。ああ、照明さんになりたい。親方(?)にすごい怒られるんだろうな。やっぱり専門学校行かないとダメなのかしら。うちの親はなんだか許してくれなさそうだな、大学通いながら勉強することもできるんだろうか。
人間に生まれ変われる保証などないというのに、そんなことばかり考えていた。
やがてまたステージが見えるようになり、「真昼の子供たち」の間奏でにこにこ微笑みながら客の顔を見渡している田中を見てわたしは絶句してしまった。
友達に聞いたら前からあの曲の時はそうだよと言っていたのでわたしの目は節穴決定なんだけど、この瞬間わたしは初めてそれに気づいて、絶望、いや、この気持ちを言葉にするのはとても難しいんだけど、丸くなった、いや違う、とにかく「た、田中ーーーー!!!」という気持ちになったのだ。
でもその一見幸せそうに見えるその表情が、わたしの目にはなんだかとても薄幸に映ってしまった。最後のライブ前にこの光景を目に焼き付けてる人っぽいというか、召されないで田中!というか、なんかよくわかんないけど額面通りには受け取れない何かがそこにはあって、ならいいや……という謎の安堵も覚える始末で、ひとりでバインを観ることにつきまとうめんどくささに天を仰ぎたい気持ちになった。次からは遅刻しないようにしよう……。
ツアーラストだったからアンコールのあとみんなねばるかなーと思ったら、さすがバインの客だけあって引きが早い早い!一定数の根強いファンはいたけれど、帰る人が7割を超えた段階でその手拍子も終息した。ものわかりがよすぎるとちょっと寂しい気もするけど、わたしの足は死亡寸前だったのでこれでよかったのだと思う。もう客も年寄りばっかりなんだからホールでやってほしい……。
次のライブはトライセラとのファーストアルバム再現ライブ。こっちは思い出が少ないから(思い出は「Here」からバカみたいに急増する)単純に楽しめそうで今からめちゃんこ楽しみなのであった。
あーーーすっきりした。